1日目




金沢駅に到着後、まず今晩宿泊予定の「ホテル ルート イン金沢駅前」に荷物を預けることに。
駅東口から徒歩5分とありましたが、7分ぐらいだったでしょうか。
そしていよいよ、金沢市内にくり出しました。
早速「1日フリー乗車券」を利用しました。
丁度お昼時なので、近江町市場へ。
地元では「おみちょ」と呼び親しまれている。

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元禄3(1690)年 袋町の魚市場が、さらに享保6(1721)年に犀川口の市場がそれぞれ近江町に移り、併合されて近江町市場の原型ができたらしい。
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文化8 (1811)年 「金沢町絵図名帳」によると、四十物(あいもの)商(魚の塩もの)や魚鳥商、荷宿(物資が集まる宿)が集まり、金沢の台所の様相を呈している。
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明治37(1904)年 「官許青草辻近江町市場」の認可
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大正12(1923)年 近江町騒動(関東大震災)
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大正14(1925)年 金沢市内で初めてアスファルト舗装の完成
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昭和2(1927)年 彦三の大火
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昭和21(1946)年 終戦直後に飢えに苦しむ市民のために豊漁のイワシを販売
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昭和31(1956)年 アーケードの完成 上空から見ると丁度、女の字に見えていた。
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平成21(2009)年 近江町いちば館グランドオープン



魚介類、果物。生鮮野菜、乾物なんでも揃っていて、見ていて飽きない。
魚屋の隣も魚屋!みたいな滅茶苦茶な店並び。
仙台では珍しい「のどぐろ」が大小様々揃っていて、大きなものは1万円以上の値段。
昨年から高かった「イカ」が1はい150円程度
だった。
岩牡蠣や、うにも並んでいた。
日本海のものなんだなと思うと、面白い。
やっと昼食!
入り組んだ路地の奥にある「ちらし鮨どんぶり
井ノ弥」
有名なのに待たずに入れて、ラッキー。
平日だからかもしれない。
ボリュームたっぷりのちらしどんぶりでほとんどのメニューが950円!
この井ノ弥は、あとでインターネットで検索したところ、金沢の海鮮丼で、ランキングNo.3に入っていました。


金沢おでんも有名だよね
金沢おでんと言いましても、統一した味、素材の定義があるわけではありません。
石川県金沢市は、日本一番おでんが食べられている地域だと言われています。
市内の飲食店でも、一年中おでんを出しているお店が非常に多く、家庭でも、もちろん食べられています。
金沢おでんには、明確な定義はないですが、塩ベースの出汁のおでんです。
特徴としては他の地域では見られないおでん種が沢山あること。
小さなかにの殻に、かにの身やカニミソを詰めて蒸した「蟹面」や車麩、肉いなりなど珍しい具材がいっぱいです。
金澤神社

兼六園の入り口近くにひっそりとあり、あまり大きくはないですが、奥に進むと赤の社殿があってお参りできます。


もともと加賀藩の学問所の鎮守の神として始まり、学問の神様として全国的にも有名です。
こちらの神社の見どころは水にもあります。
境内には真夏でも涸れることなく、長雨でもあふれることなく、いつも変わらない湧き水をたたえている金城霊沢があります。
今から1000年ほど前、芋掘藤五郎という男の人が、この湧き水で芋を洗ったところ、砂金が出てきたという伝説が残されており、そこから「金洗い の沢」と呼ばれるようになりました。
これが「金沢」という地名になったと言われています。

次はどこかな?
金澤21世紀美術館

金沢21世紀美術館は、石川県金沢市広坂にある現代美術を収蔵した美術館。愛称はまるびぃ(由来は「丸い美術館」)であるが、一般的には「21美(にじゅういちび)」と呼ばれることが多い。
もと金沢大学附属中学校・小学校・幼稚園があった場所に、2004年10月9日に開館した。観光客の多く立ち寄る兼六園の真弓坂口の斜め向かいに当たり、金沢城を復元中の金沢城公園の入口からも近い。繁華街の香林坊や片町からも徒歩圏内にある、市の中心部に立地した都心型の美術館。周囲には金沢能楽美術館、石川近代文学館、石川県立美術館、石川県立歴史博物館などテーマの異なる芸術関連施設があり、文化ゾーンを形成している。



鑑賞するだけの美術館も悪くないけど、こういう体験する施設って楽しいよ!


天気予報では曇り。
しかし、暑いのなんのって!

上の写真はパクリです。
スタッフが楽しみにしていたのですが、夏休みに向けてメインテナンス中だそうで、中には入れませんでした。
ひがし茶屋街へ





東方向を見る

東山ひがし(ひがしやまひがし)は、石川県金沢市の地区名。
重要伝統的建造物群保存地区であり、ひがし茶屋街(ひがしちゃやがい)の名称で知られる。
南北約130m、東西約180m、約1.8haで、保存地区内の建築物140のうち約3分の2が伝統的建造物であり、茶屋町創設時から明治初期に建築された茶屋様式の町家が多く残る。
加賀藩では領民にも謡を奨励し、多くの領民が謡を習い、その裾野は大きく広がった。